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永谷天満宮境内隣の別当寺、貞昌院のパンフレットによれば、貞昌院の前身は、天性院と称した天台宗の宿坊であり、その上之坊、下之坊と呼ばれた二坊のうち、この下之坊に菅原道真の息子、管秀才敦茂が住み、大宰府に左遷後の菅原道真が延喜2年(902)に自ら彫った自身像三体のうち、一体を奉祀して、朝夕崇拝したのが、永谷天満宮の始まりです。山川出版社「横浜散歩24コース」によると道真像の三体のうち、一体がその貞昌院に祭られていることから、日本三體永谷天満宮とも言われています。 |
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貞昌院「新編相模風土記」によると、道真像は、所有者を転々とした後、明応2年(1493)、領主の藤原(上杉)乗国が霊夢により、造営した永谷天満宮の社殿に祭祀され、さらに天正10年(1582)宅間規富が再建した際に、別当として開山したのがこの貞昌院です。貞昌院のパンフレットによれば、貞昌院は当初、上永谷駅付近にありましたが、文化14年(1817)に、現在の永谷天満宮の境内右隣に移転しました。貞昌院と永谷天満宮は一体として天照寺とも呼ばれていた時期があるようです。 |
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裏山へ永谷天満宮の本殿右手の階段を登って、管秀塚のあるという裏山へ向かいます。「こうなん道ばたの風土記」には、この裏山は宅間上杉氏の「詰の城(戦闘用の本城)」だったかもしれないとあります。昔は、幽邃の感に満ちた杉山だったそうですが、間伐されたのか、明るい杉林になっています。現在、桜が植えられたことを記念する碑が立っています。丘を登ったてっぺんに管秀塚があります。この管秀塚には菅原秀才敦茂の遺髪を埋めたとも、愛用の筆を埋めたとも伝えられています。 |
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管秀塚「こうなん道ばたの風土記」によると、敦茂は道真との親子二代の学者と言われたほどの人物だったが、父の失脚とともに配流の身となり、草深いこの地、相模国永谷郷の山奥に蟄居したとあります。碑によると毎日、この丘に登って父の居る西方を思慕したそうです。後に赦免されて京に戻り正五位下まで登りつめました。死後、遺命により、遺髪を埋めたのが管秀塚だそうです。碑は、昭和3年に作られ、昭和52年に地下鉄工事で現在地に移転しました。 |