熊井太郎忠基の碑

墓地の最上段、熊井太郎忠基の碑があります。墓地の入口に墓地の案内図があるので、すぐに見つかると思います。この碑が川和城跡の石碑です。

碑には城根山妙蓮寺の発祥の地と刻まれており、その横に熊井太郎忠基墨蹟と添えられています。裏には「此地は今から628年前康永3年光明帝足利尊氏時代に日蓮聖人・孫弟子越中阿闍梨郎慶上人庵を結び城根山妙蓮寺の基を閧(開)く」さらに「源頼朝の幕下の熊井太郎忠基とゆう者居住せし旧壘(砦)蹟なり。昭和47年」とあります。

妙蓮寺墓地

川和団地が建設される前、この妙蓮寺の裏山は、七面山と呼ばれていました。横浜市立川和中学校発行の「川和の歴史」によれば、七面山が55mの台地の一部である以外は、なだらかな斜面になっている事から、砦があったとは思われず、熊井太郎忠基が住んでいたというのは伝説であろうとあります。

「都筑の丘そぞろ歩き2」によれば、寺の裏山に、小机城の伝え城で川和城があり、城とは名ばかりの砦であった由。熊井太郎忠基の話も、作り話であろうとのこと。伝え城として、川和一帯を見張っていたそうです。

休憩所

ルートは墓地内を降りていきます。降りてきた所を右折します。目の前に墓参者のための休憩所が見えて、妙蓮寺の七面堂が見えてきます。

「都筑の丘そぞろ歩き2」によれば、この七面堂は、川和城の跡に郎慶上人が庵を結んだ跡で、元は七面山の上にあり、七面大明神が祭られ、江戸の難病の少年を治した事から、江戸方面から多数の参詣者が詣でた由。それゆえ、この墓地がある丘は、七面山と呼ばれていましたが、昭和30年に取り壊され、現在、妙蓮寺境内に七面堂が祀られています。

妙蓮寺

その妙蓮寺は「緑区史資料編第一巻」によれば、日蓮宗で、字城山下にあります。開基は、熊井太郎忠基の碑文と同じく康永3年(1344)、日蓮上人の孫弟子、郎慶上人。長禄3年(1459)日耀上人再興。

境内の裏側から入る事になります。お堂の横を通り抜けて、境内へ。途中にトイレがあるので、トイレ休憩をします。その先に本堂があります。「散策マップ」によれば、本堂は、文政5年(1793)に再建されたもの。歴史を感じさせる建物です。
続く