実方家墓地

山道の右手の一段低い場所の墓地の一角に実方塚があります。元々、ここではなく、西見谷山中にあったはずです。嫌な予感が的中してしまいました。

移転の記念碑には元の場所が都市計画道路、桂町戸塚遠藤線と下永谷大船線との交差点となり、この地に移転を余儀なくされた模様です。その当時は、塚が三つ丘の上に並んでいたとのことです。その際、発掘調査が行われたものの、遺品は出土せず、供養塔として作られたということです。

実方塚(歌碑)

実方とは、平安時代の歌人として有名な藤原実方で、百人一首に選ばれています。「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを」。

栄区郷土史によれば長徳元年(995)、宮中で藤原実方は、藤原行成と和歌の解釈を巡って口論となり、持っていた笏で行成の冠を打ち落としました。一条天皇は、その無礼さに怒り、実方を陸奥守に左遷しました。実方塚の由来はここから始まります。

藤原実方夫妻供養碑

由来の内容には諸説あります。まず、ガイドによる説は、実方が左遷され、奥州へ下向の途中、従者の一人がここで没し、その一族は、この地に住み着きました。もう一つ、別の説「戸塚大好きブック」によると、実方は左遷の途中、この辺りで没しました。主人を失った一族はここに住み着きました。

亡くなったのが実方本人にしろ、その従者にしろ、現在でも実方姓を名乗り、実方念仏講中で供養を続けている人達がいることは確かです。

山道の続き

現在の実方塚の先にも山道が続きます。その先で道が二手に分かれます。

右への入口には、工事のため、フェンスが置かれて行き止まりとなっています。おそらく、元の実方塚に続いていた道だと思われます。もう一方は、その先に降りて行くことから、蔵田寺の墓地へ続いているものと思われます。
続く