西方寺山門

山門に至る参道の入口には、乃木元帥の日露戦役記念碑があります。参道を登ると見えてくる山門は茅葺屋根です。「新羽史」によると、江戸時代、弘化年間(1844〜1848)のものです。

「鶴見川沿い歴史散歩」によると、西方寺は室町時代の明応7年(1495)に、鎌倉から移転してきました。

西方寺本堂(港北区新羽町2586)

横浜七福神の福神は、恵比寿です。「七福神めぐり」によると、海上安全・大漁祈願のご利益があり、転じて商売繁盛の神様です。また、境内にある観音堂は、小机観音33札所の15番目。

「新羽史」によれば、江戸時代、元禄年間(1688〜1704)のものとされる赤屋根の本堂は、現在、解体修復工事が行われています。境内の案内板によれば、この工事により、赤屋根は茅葺きにし、創建当初の姿に復元するとの事です。次いで一口千円の寄付のお願いがありました。

横穴墓群

西方寺入口には、横穴古墳があります。その中に、仏様を祀ってあります。

「新羽史」によると西方寺のある山一帯には、6世紀末〜7世紀の横穴古墳群があり、昔もこの場所がお墓として使われていた事がわかります。なお、西方寺には別の横穴古墳が、薬師堂の裏にもあることになっています。

奥様・殿様の墓

西方寺の山門に至る参道の墓地入口に、奥様・殿様の墓があります。「新羽史」によると、この墓は、江戸時代の寛永(1624〜1644)の頃、この地、新羽を納めていた旗本、若林六郎左衛門のものです。この殿様は養子だったので奥様を先に呼びます。

何でも殿様は、佐渡奉行の時に部下の不正を正したそうです。隠居後、新羽に移り住み、新羽中学校の場所にあった屋敷で暮らし、墓もその場所にありましたが、中学校建設のため、ここに移転しました。
続く