左へ

馬坂のルートは、「町田の民話と伝承第二集」によると、「成瀬から小川を通り鶴間の店屋に通ずる鎌倉古道にあり、一時は往来の多い所だった。…南成瀬7丁目、6丁目から小川1丁目へかけての坂だったが、ここも区画整理事業で昔の面影を残しているところはない。」とのことです。

坂道を登ると、また二手に分かれます。初めに右へ進んでみましたが、墓地に出たので引き返し、左へ進むことにしました。

出口

坂道を登って、雑木林や竹林を抜けると、住宅地が見えてきました。丘の上の道に出られるようです。

出てきたT字路を左折します。

分かれ道

長津田方面に進むと、先程の田苗坂が合流してきます。そのまま、真っ直ぐ進みます。

その先の左手が先程の崖山の慰霊碑にもあった原嶋源右衛門邸跡です。「町田の民話と伝承第一集」の義民・原嶋源右衛門の項の続き。「部落のために命を落したというので、処刑された原嶋一家の骨を、後で東光寺の講中で拾って原嶋源右衛門の屋敷跡にいけ、「成瀬義民原嶋源右衛門」と称えて供養塔を建てた。」と。それを裏付けるように、そのお宅の前には、原嶋源右衛門供養碑があります。あれ、供養碑が新しい。

原嶋源右衛門供養碑

この碑の前に説明文があり、「事件後、15回忌にあたる享保7年(1729)10月、講中の人々によって、義民として祀られ供養塔が建立されていたが、270年の風雪により崩壊細分した時は平成9年(1997)2月5日で正確には268年間で自然崩壊したことになる。供養塔の形は扁平船型で高さ76cm幅31cm厚さ13cmであった。今般再建したのも(平成16年・没後288年)ほぼ同様の大きさとした。」

崖山の供養塔のも含め、この説明文を書かれたのは、中里猪一氏です。「義民・原嶋源右衛門」という本を執筆されています。興味を持った方は町田市立図書館でどうぞ。
続く