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金森杉山神社鎮座の年代不明。境内の案内板によれば、天和3年(1683)に、この地の領主であった旗本、高木伊勢守の一族が下屋敷内に奉斎したのが始まりとあります。それ以上の事は書かれていません。おそらく、「新編武蔵風土記稿」に記載の所領替えのあった元禄11年(1698)までの間に現在地に移されたのでしょう。境内右手に八坂社(素戔嗚尊)を合祀しています。 |
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笠付庚申塔境内の参道の左手には、石仏群が並んでいます。この場所も、高ヶ坂地蔵堂と同じく、町内の石仏が集められていますので、全てを紹介できません。これはと思ったものを紹介します。なお、平成18年4月になり、金森文化遺産保存会により、石仏群の背後に詳しい案内板が設置されましたので、それを参考にして紹介します。写真の2体の庚申塔は、石仏群の中央にあります。笠付の三猿のある彫刻が立派なものです。右が元禄13年(1700)のもので、元は、金森413番地にあった金森地蔵堂付近にあったそうです。現在でも、その番地近くの地図上に子育て地蔵尊を見つけることができます。左が天明5年(1785)のもので、元は、金森300番地にありました。この杉山神社の南側、神社前の道路沿いにあったのでしょう。セメントで補修された姿が痛々しいです。 |
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光専神石仏群の一番左端にある石仏、天文元年(1532)の光専神です。こうせん婆さんとも呼ばれ、咳の神様となっています。案内板によると、元は、金森図書館前にあったそうです。「町田の民話と伝承第一集」によると、この光専神とは、もとは、山の神様で、目の神様ともされていました。この周りにあった大きな柘植の木の下には、香煎(むぎこがし)を売っていたことから、そう名付けられたこうせん婆さんがいました。ところが、ある日、この婆さんが香煎でむせて死んでしまったそうです。村人は、そこに石碑を建て、これをこうせんぼといって、「咳の神様」としてお参りするようになりました。お参りの際にはお茶を供えましたが、古くは麦こがしを供えたそうです。金森図書館前にあった以前には、成瀬と金森との境、京浜団地の西側の四つ辻(南四小の近く)にあったそうです。成瀬側でいう光専峰でしょうか。石碑は、トラックにひかれて三つに割れています。 |