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松寿弁財天前霊園内を進みます。松寿弁財天の前の分岐を右折します。その昔、松寿弁財天のある場所には、綱下げ松があり、その下は旧宿河原村の下綱地区に当たります。「多摩区お宝散策地図」によると、「その昔、頼朝挙兵の折に多摩川が氾濫して、行く手を遮ったが、稲毛三郎重成がこの松に綱をかけて軍勢を渡したと伝えられる。江戸時代後期に枯死した後に霊験があるとの噂が広まり、天保年間(1830〜1844)には、参詣者が群集した。その場所に祠を建てて弁財天を祀ったもので、松寿弁財天と呼ばれている。」 |
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松寿弁財天天保年間以前に書かれた「新編武蔵風土記稿」によれば、この場所は、宿河原、長尾、上下作延の4村の境であり、古松が立っていたといいます。さらに綱下げの松の由来を秀吉小田原攻めの時に、上杉家の兵がこの松に綱を下げて丘の下に降りたという説を紹介しています。「川崎の町名」によると、江戸からの参詣客が絶えず、茶店や旅籠が立ち並ぶ賑わいとなったため、幕府がこれを風俗を乱すものとして老松を切り、店も取り壊したという話を紹介しています。今では、とても想像がつきません。 |
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下り坂墓地を抜けると、下り坂となり、前方に開放感のある風景が広がっています。墓地であることを忘れるようだ。墓地だからこそ、この風景が残っていると言えるのですが。緑ヶ丘霊園は、上作延と下作延の地域にまたがった台地の上にあります。「川崎の町名」によれば、上作延、下作延ともに元は同じ一村でしたが、16世紀末期頃には、分離したようです。作延の地名の由来は、はっきりしないようですが、「サク」は「狭間」を意味する所から、平瀬川とその谷底低地を南北から丘陵地が挟む形になって東西に伸びているところから、命名されたと考えられています。 |
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合流桜並木のある坂道に合流します。初め、方向を勘違いして、左折して坂道を下ってしまい、谷底に降りてしまいます。言うまでも無く、その谷底は、お墓で埋め尽くされたお墓谷戸になっています。右折し、坂道を登っていきます。その先で、下作延から上作延へ戻ります。 |