![]() |
出口百段々というからには、実際に、百段あるだろうか。数を数えながら、登りました。結果、九十二段と百段には及びませんでした。 |
![]() |
庚坂(かのえ)百段々から出てきたところは、坂道の途中でした。この坂を庚坂と呼びます。この道を挟んで、庚台から三春台に入ります。台という名前が続くように、丘ではないものの、台地が続いています。因みに、「横浜の町名」によれば、庚台の方は、昔、庚耕地という地名があったことに由来するらしい。また、三春というのは、佳名(良い地名)として名づけられたとのこと。その台地ということで庚台、三春台と名づけられたそうです。 |
![]() |
庚坂塚少し、坂を下ったところに庚坂塚があります。初め、庚申塚だと思いこんでいたので、すぐには見つけられなかった。石碑を見ると左に昭和7年と刻まれ、右に太田小学校奨学会の賛成者が刻まれています。小学校への通学路として整備されたものなのでしょうか。ある地図では、庚坂は別の場所にあり、この坂は新坂になっています。なお、太田小学校は庚坂のすぐ東側にあります。 |
![]() |
横浜真葛焼窯場跡庚坂塚の奥にある案内板。庚坂塚の案内板と思ったら、窯場跡だということ。案内によれば、明治4年、京の真葛ヶ原で楽焼をしていた初代宮川香山がこの地に移り住み、窯を開き、ウィーンの万国博覧会で賞を得るなど、世界的に名声を得ました。「神奈川の戦争遺跡」という本によると、昭和20年5月29日の横浜大空襲の際、三代目、香山が避難した窯を爆弾が直撃し、その家族、使用人ともに亡くなりました。こうして、真葛焼は途絶えました。 |