![]() |
川田家の首切り地蔵「成瀬の石仏」には、右端の地蔵は寛文11年(1671)。庚申塔は左端が元禄2年(1689)、真中は元禄14年(1701)。「町田の民話と伝承第一巻」によると、右端の地蔵は別名「首切り地蔵」と呼ばれています。「東光寺部落との境界争いで何者かに殺された、初代川田七兵衛(焼石当左衛門)を哀れんで建てた地蔵だといわれている。焼石当左衛門は吹上の野武士で、東光寺側の原嶋源右衛門と土地争いをし、川と田を越えて領地を取った功績で、小山田地頭から川田という姓をもらった。」とありますが、地蔵の年代からすると、一代前の原嶋源右衛門でしょう。 |
![]() |
崖山を望む都県境の坂道を下る右手に、東向地団地と町田下水処理場に挟まれた崖山を望みます。かつて、この辺りの開墾田を巡って、成瀬村の東光寺部落と長津田村とで争いが起き、悲劇的な結末を招いたのがまるで嘘のようです。上の川田家の首切り地蔵もそうですが、江戸時代の村の境界争いでは、犠牲者が出ています。たとえ、争いに勝っても、幕府により見せしめのために処刑される事があったようです。その開墾田は、成瀬側は町田下水処理場に、長津田側は東向地団地と広場に変わってしまっています。 |
![]() |
左折成瀬街道を恩田町の堀之内地区の上和田バス停方面に進みます。それに至る手前で、都県境の丘に向かって、分かれ道に左折します。 |
![]() |
左折その先の分かれ道を左折します。今まで歩いてきた成瀬街道の方向とは逆方向を進みます。 |