関戸地蔵堂前

関戸の庚申塔を過ぎて、連光寺地区への御幸橋交差点を過ぎた先に、祠が見えてきます。

関戸古戦場跡とされる関戸地蔵堂です。元弘3年(1333)、鎌倉幕府打倒を掲げた新田義貞の軍と鎌倉を防衛するために進出してきた鎌倉幕府軍が、この先の分倍河原で衝突し、戦いになりました。この戦いに勝った新田義貞軍がその勢いのまま、鎌倉に雪崩れ込み、鎌倉幕府を滅亡させるには、そうは時間はかかりませんでした。

関戸地蔵堂

関戸地蔵堂のなかにあるのは、「新多摩石仏散歩」によれば、左、寛文3年(1663)の地蔵、右、寛政元年(1789)の永代融通念仏盟約塔です。

関戸古戦場の跡にあるので、その供養の為に建てられたのかと思いましたが、佐藤孝太郎著「多摩歴史散歩」によれば、地蔵の裏には、「関戸村念仏講中」と刻まれ、永代融通念仏盟約塔は、その名の通り念仏を唱えることを約束したもののです。

伝・横溝八郎の墓

分倍河原の戦いの延長上で、この地も戦場となり、鎌倉街道沿いでは、鎌倉幕府側の部将の墓とされる古墳が残っています。

関戸地蔵堂の手前の路地へ左折し、その裏手にあるのがその鎌倉幕府側の部将だったと伝わる、横溝八郎の墓です。この場所は民家の庭にあり、近づくことはできません。道から眺めるだけです。

大栗橋

旧鎌倉街道を進みます。関戸地蔵堂の先は、大栗川となっています。

右手に並行する鎌倉街道は、新大栗橋で渡ります。
続く