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下宿常夜燈案内板によれば、かつて、この辺りを長津田宿と呼び、上宿、下宿にそれぞれ、常夜燈が残されています。この常夜燈はその内の下宿のもので、文化14年(1817)に宿中の大山講中が建立したものです。この場所には、他にも地神塔、庚申塔などが集められています。長津田歴史探訪マップによれば、この場所は長津田十景(金沢八景に似せたもの)の下宿晴嵐とのことであります。「宿場の入口には常夜燈があり、灯火を灯して道を照らし、宿場の安全と暗い夜道を行く旅人のための道しるべでもありました。」この先、下り坂が続きます。 |
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三叉路右手にNTTを過ぎた所で、坂道の途中で道が二手に分かれます。右手の道の先には、現在の246との下長津田交差点が見えます。ほとんどの車は右折していきます。右手に分かれる道は十日市場に続く神奈川道です。その分かれ道の付け根に、地蔵が三基と石像物が一体あります。また、分かれ道の右手に道路改修の碑があります。碑文には、昭和9年に長津田中山線(右手の道のこと)の道路改修を行った事、米軍輸送部隊がこの碑を粉砕してしまった為、昭和31年に再建した事が書かれています。 |
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片町地蔵(坂上の地蔵尊)地蔵に近づきます。「都筑の丘そぞろ歩き3」によれば、「三基のうち中央のものの台石に、「右 かな川(神奈川)、左 みぞの口(溝口)」と刻まれ、左側のものの台石には「南 カナ川道、東 江戸道」と刻まれている。」米軍輸送部隊は「加藤外記の碑」も壊してしまったそうです。「写真で読む今昔・矢倉沢街道−大山道−(その二)」からの引用によれば、「加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓いた。これが領主より反逆の企ての証であるとして捕らえられた。そしてこの地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑された。」 |
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横浜線青山ガードそのまま、坂道を下っていくと、横浜線の青山ガードをくぐります。「探訪マップ」によれば、このガードは、横浜線開通当時のものとの事です。橋脚部分に風格があります。もっとも、開通当時は単線だったので、後から複線化された奥の部分は味気の無いコンクリート製になっています。また、田井 秀著「いぶき野今昔」では横浜線の敷設された明治40年代初めの道の幅そのものではないかと述べています。 |