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祥雲寺前分岐地蔵堂の次は、祥雲寺。高ヶ坂地蔵堂の前の坂道を登ります。辺りは、住宅地となっています。坂道を登ったところで分岐となり、祥雲寺は、ここを右折することになります。分岐の場所に石仏群があります。この先、祥雲寺を告げる石碑を中心として、周りに石仏が集められています。 |
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祥雲寺前石仏群壇の上にあるので、あまり近寄れないのが残念です。武相37番、身代聖観音の碑が立ちます。「町田の民話と伝承第一集」に、祥雲寺の身代わり観音の話が載っていて、要約すると、夜中に盗賊が寺に忍び込み、それを見つけ、咎めた住職に斬りつけて、逃げてしまった。ところが、斬られたはずの住職の体には、傷が無く、代わりに本堂の観音様に刀の傷跡があった。それ以来、身代わり観音として噂が高まり、信仰するものが多くなったということです。 |
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戒壇石と地蔵2体石仏群の左手には、文政10年(1827)の戒壇石があります。「不許葷酒入山門」と書かれてあります。辞書によると、葷酒とは、においの強いニンニクなどの野菜と酒であって、これを口にしたものは、山門をくぐることは許さないという禅宗ならではの禁制です。「新多摩石仏散歩」によると、その右隣にある天和3年(1683)の天蓋付きの地蔵は、当時、胸から下が地中に埋まっていたそうです。現在では、全身を地上に露出されています。戒壇石の左に見える地蔵は、当時無かったようで、供養塔のように思われます。 |
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青面金剛庚申塔と馬頭観音二手像石仏群の右手にある2体の石仏を取り上げます。嘉永7年(1854)の青面金剛庚申塔は、全体が剥離してしまい、残された左手が持つ太陽が唯一の手がかりです。「新多摩石仏散歩」によると、嘉永4年(1851)の馬頭観音二手像は、元々は、この場所の背後にあったという林の中にあったそうですが、約10年後の現在では、その場所は墓地に変わっています。そのため、この場所に移されたのでしょう。 |