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稲荷神社と御嶽神社境内の左手に、(左)稲荷神社、(右)御嶽神社があります。由緒書きによれば、御嶽神社は、大正4年に合祀されるまで、恩田川の都橋の上流約300m(先程の中山大橋の上流付近)に祀られ、農業の神として住民から信仰を集めていました。「中里郷土史」によれば、この地は武州御嶽から九十九谷の最終の谷で、山留明神とも称しました。古くこの地には、鎌倉街道中の道が通り、二俣川に向かう途中の畠山重忠公が元久2年6月22日、この社に参拝したそうです。 |
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分かれ道杉山神社前の通りを進むと、別の通りに出てきます。杉山神社のそばに、蓮生寺があります。分かれ道を右折し、先程のバス通りの方向に向かうと、蓮生寺の案内板が現れます。その矢印の指す方向の路地へ左折します。 |
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蓮生寺路地の一番奥に、日蓮宗法性山蓮生寺があります。「緑区史資料編第一巻」によると、創建永禄2年(1559)とされていますが、縁起では永禄元年(1558)に明静院日領の開山。本尊、阿弥陀三宝。「鶴見川沿い歴史散歩」によれば、領主勝部氏の代々の墓があります。勝部氏は、元小田原北条の家臣で、小田原城開城後、天正18年(1590)にこの地の領主になりました。「緑区史資料編第一巻」によれば、その後、文禄元年(1592)に中興してから蓮生寺の名になったのことです。蓮生とは、中興した勝部尚正の父、正信の法号とのこと。 |
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青砥大明神境内左手に青砥大明神があります。説明書きによれば、この碑は、村人が青砥左衛門藤綱の徳望を慕い、墓を祀ったのが起こりです。享保17年(1732)の頃、疫病が流行し、神に祈願した所、墓が荒廃にまかされて顧みる者もいないため、神の怒りに触れたのだというお告げがあったのだといいます。そこで、大明神を勧請し、青砥村の守り神として崇め奉るようになりました。現在の碑は、享和3年(1804)のもので、以前は、青砥町バス停裏にありましたが、昭和53年(1978)に移転しました。 |