もみの木台

橋を渡った先は、もみの木台の住宅地。分岐を左折します。

「横浜の町名」によると、町名の由来は、もみの木のように発展することを願ってのことです。

堺塚跡?

住宅地を進むと、坂の上に堤のようなものが見えてきます。何だろう。地図上では、その堤と川崎市と横浜市との境が見事に重なるのですが。その市境の堤に沿って右折。

「川崎地名辞典」によると、この辺りを堺塚と呼び、「黒須田堺の山に塚があった。現在のもみの木台との境の方面。」さらに、「川崎の町名」によると、境塚は、鉄村との境に塚を築いた事からつけられた地名で、ここから南西に向かう尾根道に境界塚が並んでいたそうです。

並木松跡?

堤に沿って進みます。「鶴見川沿い歴史散歩」によるとその境塚、現在のもみの木台26番地に並木松(大蛇松)があったといいます。昭和45年に伐採してしまったとの事。この堤が境塚の跡であるかわかりませんが、「鶴見川沿い歴史散歩」によると、この堺塚沿いの道は、鎌倉街道の中ノ道であったとの事。

周りは住宅地です。夕暮れ時、写真を撮っていると住民に怪しまれます。

行き止まり

堤を登る道が現れたので、堤の上に登って進む事にしましたが、その先の住宅脇にはロープが張られて、進めないようになっています。市境なのに、進めないのはなぜ?

横浜の昔話に、境を鉄火の法で決めたという鉄村と早野村との境争いの話が紹介されています。鉄火の法とは、真っ赤に焼けた鉄の棒を握らせ、偽りのない者は、握っても火傷をしないといいます。(萩坂昇著「神奈川ふるさと風土図横浜編」より)そんな原始的な方法で決まったのが、今の市境だということです。
続く